№217 前260年


引用元:ワールド・ヒストリカル・アトラス – HoneyComb (x768.com)
人口※:南北アメリカ 6,700,000人 アジア 142,600,000人
ヨーロッパ 38,800,000人 オセアニア 1,000,000人
アフリカ 21,200,000人 世界全体 210,300,000人
※「歴史上の推定地域人口」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』を参考に、 自分が導き出した推定値です。
☆日本×世界
8月 5日

☆身体×世界
身体(前面)

身体(後面)

足(表面)

足(裏面)

☆事件・出来事(状態)
- アグリジェントからのローマ軍の西進は、包囲されたセジェスタやマセラを解放しながら続いた。これらの街はローマ側につき、カルタゴからの攻撃を受けることとなった。
- ハンニバル・ギスコは、メッシーナ海峡のカルタゴ軍を統括する提督として、シチリアでの戦いに戻った。ローマが最初の海軍を派遣しようとしていたことから、カルタゴはこれを妨害することを決めた。ギスコはローマ軍の一部を破り、エオリア諸島付近で執政官のグナエウス・コルネリウス・スキピオ・アシナを捕虜とした。「ロバ」を意味する「アシナ」という渾名は、この戦いの際に名付けられた。しかし、周辺の海域に大量のローマ軍が進出してきており、カルタゴのこの勝利は限定的な意味しか持たなかった。
- カルタゴ軍の海域での優位性に対する自信から、ギスコはミュラエの戦いで伝統的な直線状布陣を敷いた。海戦の経験がなかったにもかかわらず、執政官ガイウス・ドゥイリウスは、四爪錨やコルウスを利用する等、海戦に地上戦の戦術を取り入れることで、カルタゴ軍を壊滅させた。
- ミュラエの戦いで勝利したローマ軍は、シチリア北部からテルメーへ侵攻したが、そこでハミルカル(英語版)の率いるカルタゴ軍に敗れた。
- 第二次シリア戦争
- この頃、叙事詩人ロドスのアポローニオスがアレクサンドリア図書館の館長となった。
- 長平の戦いで、秦軍は趙軍を完全に打ち負かし、中国全土での軍事的な優位性を確立した。この戦いでは、趙軍は廉頗と趙括、秦軍は白起に率いられ、今日の高平市の近くで戦闘が起き、戦いの後には、数十万人の趙軍の兵士が処刑された。
☆誕生(IN)
- 始皇帝 – 秦の皇帝( ~紀元前210年)
- →「Category:紀元前260年生」も参照
☆死去(OUT)
参考文献:「紀元前260年」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』2024年12月29日 (日) 13:30 UTC URL:https://ja.wikipedia.org/



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